UBE現代日本彫刻展 -Ube Sculpture Triennale

僕と宇部の彫刻展

植松 奎二

今机の上に第2回現代日本彫刻展1967年の自黒の薄い16ページほどの冊子がある。この冊子を手に入れたのは1993年だったと思う。興奮してページをめくっていって作品の写真を見たのが今蘇ってくる。彫刻を作り始めた頃の僕を思い出す宝物である。
僕と宇部の関わりは1969年からである。大学を卒業して作家活動を始めた年でこの年の第1回現代国際彫刻展[註]に運よくコンクール入選して彫刻家として活動していけると意気揚々としていたのを思い出す。神戸から一人でヒッチハイクで第3回現代日本彫刻展を見に行った。今と同じ様に常盤公園が会場だった。ワクワクしながら、興奮して作品を見て回った。現代の最先端の彫刻を見ているんだと実感した。実際に今でも鮮明に覚えている。村岡三郎さんの『自重』[図1]大きな砂袋に砂の様なものを入れて引っ張り上げた状態をポリエステル樹脂で形を取ったもので重い下の部分とその吊り上げている上部が下部の切られたような上面に付いているものだった。この時コンセプトと力強い彫刻が一体化している事に感動した。後に貨物列車の横にもトラックにも自重と書かれているのを見る度に作品を思い出した。後に重力や引力に関わる作品を僕が作り始めた時にもこの言葉を思い出した。今もときわ湖水ホール前の緑の斜面にあるこの作品は僕と宇部との関わりの最初である。もう55年が 経っている。他に田中信太郎さんの『リレーション』[図2]常盤公園の緑の斜面にグリーンの板が1枚、2枚、3枚、4枚と積み上げられ、お互いに隣接しながら階段状に置かれたミニマルな作品も素晴らしかった。そして僕もいつかはこの彫刻展に展示したいと強く思った。そしてヒッチハイクで神戸にもどった。夜遅くついても興奮の余韻は残っていた。
1973年からコンクール部門が出来た。残念ながらコンクールに応募したけれど模型入選で実際には作ることはできず。その後1975年からドイツに渡ったので知り合いが大賞を貰ったとか色々ニュースは聞いていたけれど直接の関わりは無かった。1986年から日本とドイツと両方に住む様になってからやっと1993年に招待がきた。その頃円錐の形の作品をギャラリーの個展で発表していたのでステンレスの大きな円錐体と石と鉄板を組み合わせた作品『呼吸する時-傾』[図3]を一夏汗をかきながら作った。やっと願いが叶って出品できた。僕の作品は現場で組み立てて初めて作品になるので興奮しながら設置作業をしたのを思い出す。できた作品は以前からその場にある様に呼吸していた。今は岐波駅近くにあり宇部に車で入って行く時に迎えてくれる。大賞は逃したけれど2番目の賞だった。そのおかげでまた2年後招待がきた。そして大きな切り出した石と自然石と鉄板で『浮く石』[図4]を作った。また2番目の賞だった。そして2年後1997年また招待がきた。生きた楠木を植え大きな自然石と鉄板を組み合わせた生成する彫刻『樹とともに-浮くかたち』[図5]を 作った。そしてまた2番目の賞だった。
3回も招待で作品を作る機会が出来て本当にラッキーだと思っている。作品も全て宇部市に残っている。この様な機会がなければあの様な大きな作品を作れなかったし、それらは僕の野外彫刻作品の中で重要な位置を占めている。
一年ごとの夏の制作が本当に楽しかったことを今改めて思い出す。

そして今、選考委員の話が来て宇部市の彫刻展とまた繋がりが出来た。
運営委員で選考委員の澄川先生が昨年亡くなられた。本当に残念です。1969年から幾度か展覧会と色々な賞の選考委員会でお会いしていました。先生の作品は『そりのあるかたち』というタイトルで木彫だけでなく石や金属も使い、いつもシャープで存在感のある彫刻でした。大先輩の彫刻家でありながらいつも会ったら気さくに話しかけてくださり、色々な人、作家仲間にも敬愛される彫刻家でした。宇部市の彫刻展の発展に関わってこられた澄川先生が亡くなられて今、後ろから背中を叩いて「植松君、頼むわ」と言われた様な気がしまし た。今まで日本現代彫刻の歴史を作って来て、またこれからの現在の彫刻を見ることのできる現在進行形のUBEビエンナーレの運営と選考に関わっていけるのは光栄であり、少しでも力になれたらと思い頑張ってやっていこうと思っています。

 これからも宇部の彫刻展に関わっていけるのを楽しみにしています。

 [註] 会場:彫刻の森美術館(神奈川県)

図1
図2
図3
図4
図5

 

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